俳優として第一線で活躍する山田裕貴さんの父親が、元プロ野球選手だったことをご存じでしょうか。その父・山田和利さんは中日ドラゴンズや広島東洋カープで活躍し、引退後はコーチとしても球界を支えた人物です。
山田和利さんの引退理由や現役時代のキャリア、そしてコーチ退団後の生活まで、気になりますよね。さらに2025年8月には悲しい訃報も伝えられました。
山田裕貴さんが俳優を志すきっかけとなった父の存在についても、詳しく見ていきましょう。
山田和利の経歴と引退理由について
山田裕貴さんの父・山田和利さんは、プロ野球の世界で13年間にわたり選手として戦い抜いた方です。東邦高校時代から抜群の身体能力で注目され、ドラフトを経てプロの世界へ飛び込みました。
- 山田裕貴の父・山田和利は元プロ野球選手で、中日ドラゴンズと広島東洋カープで通算366試合に出場
- 引退理由は度重なる故障で、1996年に中日復帰後も怪我により一軍出場ゼロのまま現役を退いた
- 引退後はコーチ・フロントとして球界に貢献し、2021年に広島を退団
- 2025年8月16日、がんのため60歳で死去。約4年間の闘病は本人の意思で公にされていなかった
- 山田裕貴が俳優を志したのは、父の「やると決めたことを最後まで続けろ」という言葉がきっかけ
| 名前 | 山田和利(やまだ かずとし) |
|---|---|
| 生年月日 | 1965年6月3日 |
| 没年月日 | 2025年8月16日(60歳没) |
| 出身地 | 愛知県名古屋市 |
| 出身校 | 東邦高等学校 |
| ポジション | 内野手(二塁手・一塁手・遊撃手など複数) |
| 所属球団 | 中日ドラゴンズ(1984〜1990)→ 広島東洋カープ(1991〜1995)→ 中日ドラゴンズ(1996) |
| 通算成績 | 366試合出場 |
| 家族 | 妻・菜実恵、長男・山田裕貴(俳優)、長女・山田麻生(モデル) |
東邦高校からドラフト4位で中日入団
山田和利さんの出身校は、名古屋市名東区にある私立の東邦高等学校です。選抜高等学校野球大会(通称・春の選抜甲子園)で全国最多5回の優勝を誇る名門中の名門として知られています。
和利さんはこの強豪校で3年間野球に打ち込み、100mを11秒台で走る俊足を武器に、野球部の主将も務めていました。残念ながらチームは春の選抜甲子園への出場は叶いませんでしたが、和利さん個人の能力は高く評価されていたんです。
1983年11月22日に行われた第19回プロ野球ドラフト会議で、中日ドラゴンズから4位指名を受けて入団が決定。翌1984年から晴れてプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせました。
ただ、プロの壁は厚かったようです。入団から2年間は一軍出場の機会がまったくなく、3年目の1986年にようやく代打で起用されたものの、その年の出場はたったの1打席だけでした。
この現実の厳しさに大抵の人なら心が折れてしまいそうですが、それでも和利さんは諦めずに努力を続けました。
それでも腐らず努力を続けた和利さんに、5年目の1988年に転機が訪れます。この年はなんと自己最多の82試合に出場し、複数ポジションをこなすユーティリティプレイヤーとして重宝されました。
足の速さを活かして10盗塁を記録し、チームトップの三塁打も放つなど存在感を発揮。チームも後半戦から怒涛の追い上げを見せ、4度目のリーグ優勝と日本シリーズ出場を果たしました。
しかし翌1989年は一軍出場なし、1990年も29試合の出場にとどまり、安定したポジションを確保するまでには至りませんでした。そんな和利さんのもとに、ある球団からトレードの話が舞い込んできます。
広島東洋カープで自己ベストの活躍
1990年のオフシーズンに2対2のトレードが成立し、当時25歳の山田和利さんは広島東洋カープへの移籍が決まりました。
移籍を機にプレースタイルを一新し、強打の内野手として再出発した和利さん。この決断が見事に実を結ぶことになります。
1992年8月、二塁手のレギュラーだった正田耕三選手が手首の故障で離脱すると、代わりに和利さんが二塁手・二番打者としてスタメンに定着。その年は自己最多を更新する93試合に出場し、打率.282、29打点、8本塁打と見事な成績を残しました。
さらに1995年には、故障者が相次いだこともあり一塁手としてチームトップの70試合に出場。キャリアハイとなる94試合出場、打率.270、12本塁打、53打点という素晴らしい成績を記録しました。
ところが、この充実したシーズンの終盤に左ひざじん帯断裂という大怪我を負ってしまいます。じん帯の損傷は種類によって回復期間が異なり、前十字じん帯以外であれば通常2〜4か月程度で競技復帰を目指せるとされています。
山田和利の引退理由は度重なる故障だった
怪我から回復した和利さんは1996年、トレードを経て古巣の中日ドラゴンズへ復帰することになりました。星野仙一監督の復帰に伴い、背番号7を与えられるなど大きな期待を寄せられていたんです。
ところが、その期待も束の間のことでした。再び故障を負ってしまい、一軍での出場は一度もできないままシーズンが終了。結局、その年限りでの引退を決意し、約13年間の現役生活にピリオドを打ちました。
山田和利さんの引退理由は、まさにこの「度重なる故障」に尽きます。1995年の左ひざじん帯断裂から始まり、復帰後もコンディションが万全に戻ることはありませんでした。
足の速さを最大の武器にしていた選手にとって、膝の故障は致命的だったのでしょう。通算366試合出場という数字の裏には、故障と闘いながらプロの世界で13年間もがき続けた不屈の精神がありました。
山田和利の引退後の活動と訃報
現役を31歳で退いた山田和利さんですが、野球界との縁はそこで途切れませんでした。すぐに指導者としての道を歩み始め、長年にわたって球界に貢献しています。
コーチ・フロントとして中日と広島で活躍
1997年から中日ドラゴンズのコーチに転身した和利さんは、約7年間でさまざまなポジションのコーチを歴任しました。二軍・一軍の打撃コーチ、内野守備・走塁コーチ、そして二軍野手総合チーフコーチと、幅広い役割を担っています。
そのコーチとしての手腕は確かなもので、1999年と2004年の2度にわたりリーグ優勝に貢献しました。
2005年からは球団のフロントに入り、経営やマーケティングなどの業務を担当。監督や選手を裏方として支える役割を任されました。
2011年にはかつて在籍した広島東洋カープにコーチとして復帰し、二軍の守備・走塁コーチを務めています。2012年には再びフロント入りして球団編成を担当し、2015年からは再度コーチとして現場復帰するなど、現場とフロントの両面で球団を支え続けました。
ところが2021年11月3日、突然の退団が発表されます。退団の具体的な理由についてコメントはありませんでしたが、のちに明かされた事実から、この頃すでにがんとの闘病が始まっていたとみられています。
山田和利の妻について
山田和利さんの妻は菜実恵(なみえ)さんという方です。一般の方のため、詳しい経歴などは公表されていません。
長男の山田裕貴さんは過去のテレビ番組で、母親について「女優の羽田美智子さんに似ている」と語ったことがあります。裕貴さんと妹の山田麻生さんを育て上げた母親で、和利さんの闘病生活を家族とともに支えていたとされています。
和利さんが亡くなった際に公開された結婚式の写真からも、仲睦まじい夫婦の姿がうかがえます。
がん闘病と60歳での死去
2025年8月26日、俳優の山田裕貴さんが自身のInstagramとXで、父・山田和利さんが8月16日に60歳で亡くなったことを報告しました。
裕貴さんによると、和利さんは約4年前からがんを患っていたそうです。しかし、闘病の事実はごく一部の関係者以外には知らされておらず、本人の強い意志で公にはされていませんでした。
余命半年と宣告されながらも、そこから4年間にわたり家族や周囲に支えられながら懸命に生き抜いたといいます。
裕貴さんは深夜ラジオ『山田裕貴のオールナイトニッポン』でも父の訃報に触れ、「プロ野球の世界でお世話になった方々や、父を応援してくださったファンの皆さんにきちんとご挨拶をしなければと思った」と報告の理由を語っています。
また、2021年に裕貴さんが「今年の顔」に選ばれたその日に、父から「プロ野球界を離れることになった」と連絡を受けたエピソードも明かされました。自身の栄光と父の退団が同じ日に重なったあの瞬間の心境は、どれほど複雑だったことでしょう。
山田裕貴が俳優を志したのは父・山田和利がきっかけ
2011年に俳優デビューし、映画やドラマで数多くの作品に出演してきた山田裕貴さん。2026年には第49回日本アカデミー賞で優秀主演男優賞を受賞するなど、まさに日本を代表する俳優の一人に成長しています。そんな裕貴さんが俳優の道を歩むきっかけには、父・山田和利さんの存在が深く関わっていました。
プロ野球選手を夢見た少年時代
裕貴さんは2023年5月放送のTBS系『日曜日の初耳学』で、父・山田和利さんに憧れて野球を始めたことを告白しています。
小学校3年生から野球をスタートし、中学校では硬式野球部に入部して3年間プレーしました。ただ、在籍していたのが強豪チームだったこともあり、なかなかレギュラーにはなれなかったそうです。
裕貴さんは当時の苦しさについて、補欠としてベンチにいる悔しさに、父の前では泣けずに風呂場で涙を流していたと振り返っています。プロ野球選手の息子というプレッシャーにも苦しめられ、「自分の人生を生きているのかわからなくなった」と思い悩む日々が続きました。
結局、中学校での部活を最後に野球を辞めるという決断を下します。その姿を見た父・和利さんは、「俺は野球をやれとは言っていない。だけど、お前がやるって言ったことを何で最後まで続けなかったんだ」と厳しい言葉を投げかけたそうです。
父の言葉が俳優への道を開いた
高校は父・和利さんの母校でもある東邦高校に進学した裕貴さん。野球部ではなくバレー部に入りましたが、「父と同じ高校に行くことでちょっとでも近づいたと思おうとしていた」と、どこまでも父の背中を追い続けていたことがうかがえます。
転機は高校3年生のとき。母校の野球部が甲子園に出場し、かつて中学時代に一緒に野球をしていた仲間たちが甲子園の舞台で戦っている姿を目の当たりにしたんです。
スタンドで涙が止まらなくなった裕貴さん。周りの友達が心配するほどの号泣だったそうです。野球を続けなかったことへの後悔が一気に押し寄せてきました。
そのとき、父から言われた「やるって決めたことを何で最後まで続けなかったんだ」という言葉が胸に響き、「次に挑戦するって決めたことは絶対に死ぬまで続けよう」と心に誓ったそうです。
高校卒業後、妹さんから俳優養成所のオーディションのことを教えてもらい、「これで行く」と決断。以来、その決意はブレることなく俳優の道を突き進んできました。
父子の深い絆を示すエピソード
2018年8月10日、裕貴さんはナゴヤドームで行われた中日ドラゴンズ対東京ヤクルトスワローズ戦の始球式に登場しました。ユニフォームの背中には、父・和利さんが現役時代につけていた背番号30が。
小中学校で野球経験のある裕貴さんはノーバウンドの投球を見せましたが、球速は73キロと控えめでした。これは和利さんから受けた「デッドボールだけは投げるな」というアドバイスを忠実に守り、制球を重視して投げた結果だったそうです。
始球式後のインタビューでは、涙を浮かべながら感慨を語っていた裕貴さんの姿が印象的でした。
また、2021年12月放送のTBS系『人生最高レストラン』では、妹の山田麻生さんが父の素顔を明かしています。普段は息子を直接褒めることのない和利さんが、実は陰で「裕貴はよくやっている」「俺にはできないことだからすごい」とポロッとこぼしていたというのです。
映画やドラマは必ずチェックし、映画館に大きく掲示されたポスターを見て嬉しそうにしていたという和利さん。その事実を知った裕貴さんは涙を浮かべ、「本当に褒めない人だったので、なんか嬉しいです」と喜びをにじませていました。
寡黙で厳しい父親の裏にあった、息子への深い愛情。不器用ながらも互いを尊敬し合う父子の関係が、この家族のかたちだったのかもしれませんね。

